外からの刺激
社会人になって一年ほどが経過しようとしている。
最近思ったことが一つあって、最近自分自身がルーティーンの中に取り込まれて、外部への視線を驚くほどに失ってしまっているということだ。
狭い世界の中だけで過ごして、そこの中で過ごすことに精一杯になってしまっている。
そんな状況を打破するために、他の人の考えを、他の人の話を聞こうと思った。
そこでなんとなくpenという雑誌を買ってみた。
今回の特集は2020年に活躍した人みたいなそんな感じ。
まだ全部読んではいないけど、すごく刺激的なインタビューだった。
ここから学んだことがある。やる気を自分んで出すのは難しい。なかなかな自分を自発的に奮い立たせるには労力がいる。
でも外部の誰かが頑張っていたり、自分が尊敬できる、真似したいというような行動をしているのをみたり聞いたりすると、それだけで自分も真似してみよう、ちょっと頑張ってみようという気になる。
ということは定期的に外部からの刺激を受けることで、自分のやる気を常に起こせるし、仕事のルーティーンの中にハマってしまうことからも脱することができる。
なのでこれからは定期的に外部の刺激を取り入れられるように、毎週くらいで何か刺激を受けられるように習慣づけようと思う。
最後にpenの中でking Gnuの常田大希が言っていたことがすごく良かったからかく。(意訳)
自分のクリエイティブな欲求はもっと出していいし、色々な顔を持っていていい。別にクラシック好きな人がJ-POP作っていい。そこの違いは、会う人によって話し方を変えるみたいな感じ。
僕も仕事だけではなく、自分の持っている別の側面("ブログ"、"創作")と言った面も持っていていい。そこももっと伸ばしていきたい。そしてそこを色々なものと繋ぎ合わせてみたい。他の人に見て欲しい。
【2021年の目標】
今年の目標を考えた。
目標:"意味を作る"
大学にいる間、文学や哲学を通して、自分が生きている意味ってなんなんだろうとひたすら考え続けてみた。
そんな大学生活が終わり、社会に出てみた。
割と社会に馴染むことができた。充実もしていた。
ある日久しぶりに、長期で休む期間が生まれた。
その間にまた意味を考え始めていた。不安感にも久しぶりに苛まれた。
言葉が湧き水のように頭の中を駆け回る。真っ黒な背景にはびっしりと、幾重にも折り重なりながら言葉が湧いて出ては消えていった。
休みが明けて久しぶりに仕事に行く。自分にはやることがそこではあった。
怒られるけどその中で”意味”を与えられていた。
言葉さっと引いていった・・・
"意味"というのはこれまでずっと探すものだと思っていた。
ただ最近これに対する考えが変化しつつある。
意味はもしかしたら作る、もしくは出来上がっていくものなのではないのか?
こんな風に今考え始めている。
だから今年2020年は"意味"を作ってみる。
#2 『穴』小山田浩子
♯1 『背高泡立草』と純文学のこと
サブカル活動第一弾は第162回芥川賞を受賞した、古川真人『背高泡立草』を読んでみようと思う。
おそらく、芥川賞を受賞するような純文学作品は、ミステリー小説や娯楽小説のような、ハラハラした面白さや、最後のどんでん返し、といったような感情に訴えかけてくるようなわかりやすい面白さは無いかもしれない。(そんなことはない、という人もいるかもしれないけど。)多分、たいていの人にとっては、一体何が面白いのかよくわからないものであるように思う。僕も昔はそうだった。別に感動もしないし、はて、何が面白いのやら・・・?
でも今はそこに面白さを見出すことができている。(退屈な作品も多いけれども。)ここでは、そういった「純文学」と世間で呼ばれる作品の面白さを少しでも伝えてみたい。
ということで、今回はふと書店で見かけて気になった『背高泡立草』の話。
軽くこの作品に関して話すと、作者は古川真人、1988年生まれで結構若い。いくつかの作品で芥川賞候補になっているみたいで、世間からの評価は結構高いみたい。彼の母親が長崎の出身のせいか、「大島弁」という方言がよく出てくるらしい。(詳しくはwikiediaへgo)『縫わんばならん』という作品で新潮新人賞という賞をもらっているらしく、この作品の名前は僕も確かに、聞いたことがある気がする。
この『背高泡立草』という作品のあらすじをざっと述べる。
ある家族たちが、実家にある、すでに使われていない納屋の草刈りに行く。あるものは、なぜ使われていない納屋の草刈りをするのか理解ができず、あるものはそれを自分たちの所有物だから当然のことだと考える。そんな家族が草刈りをする描写と入れ替わり立ち替わり、その描写の中で触れられた、ある事柄にまつわる過去の出来事の描写が、生き生きと描かれる。この現在と、過去が混じり合いながら、この小説は進んでいく。
極々簡単にあらすじを述べてみたが、一体この作品のどこが面白いんだ、ということに話を移してみたい。
僕が面白いと思った点、それは「草を刈ることの意味」だ。
(なんでそんなところが面白いのか、と思われるかもしれないので、少し脱線。おそらく純文学作品の面白さの一つはこのように、作品の中の描写や行為の意味を考えることにもある。普通の娯楽小説は、誰にでもわかりやすく、読んですぐわかるように書いてある。しかし、純文学は言語で作られた「芸術作品」。手を替え品を替え、言語を使って何か新しいものを生み出そうとする。それゆえ、簡単には理解できない。逆に理解できなくても良いのだ。これはなんなんだろう、と自分なりに解釈を作っていけるもの、それが文学作品だと僕は思う。だから僕がここに書いていることも、僕の解釈であって、正解ではない。)
少し長い脱線になってしまったが、話を戻す。「草を刈ること」にどんな意味があるのか、僕なりに解釈してみた。
家族は総出で納屋の周りの草を刈る。その際にいろいろな事柄に話は移る。例えば、ある家の中に置いてあるカヌー。納屋の中に置いてある網。その都度、それら事物にまつわる過去の話が挿入される。読んでいる僕は、まさに草を掻き分けるように、この家族にまつわる過去の記憶の中に分け入っていく。
そして草刈りを終え、家族はまた自らの生活に戻っていく。しかし、草は毎年生え、納屋を覆ってしまう。過去の記憶が、語られないことでどんどん忘れ去られ、「過去」という区分けされていない堆積物としてどんどん積み重なっていくように。
しかし、物語の最後で、納屋の周りを覆う雑草が、実は様々な種類の草から成り立っていることが描かれる。彼らが刈った雑草は、すべて等しいものではなく、それらは実は個々に名前を持つ異なったものなのだ。そしてこの雑草と過去の記憶を重ね合わせてみると、草を刈ることの意味が少し見えてくる。
雑草が様々な名前を持つものであることと同様に、過去の記憶もまた、それぞれ具体的な物語を持っている。雑草は堆積する過去の記憶であり、それは等しく、個別的なものなのだ。つまり「草を刈る」という行為は自分たちの足下に積み重なった「記憶」を再度見つめる行為として描かれているのである。
非常にわかりづらい説明になってしまったが、これが僕の解釈である。「草を刈る」という行為が、物語全体の構造とリンクし、読者は草を刈るように、この家族の過去の出来事にわけ入る。そして、一様化されてしまっているものが、実は個別的なものであることを再度認識するよう促される。
だらだらと、どうにか自分の解釈を言葉にしようと試みたが、思ったより難しい。少しずつわかりやすく説明できるように、改善していきます。
ただ僕が伝えたいのは、こんな風にして、これってなんなんだろうと考えることが純文学の楽しみの一つであるということです。正解はありません。ぜひ読んでみてあれこれ自分なりに考えてみてください。