サブカル日記

本、映画、喫茶店、ファッション等々・・・いわゆるサブカルを探報し続けます。

♯1 『背高泡立草』と純文学のこと

 サブカル活動第一弾は第162回芥川賞を受賞した、古川真人『背高泡立草』を読んでみようと思う。

 

おそらく、芥川賞を受賞するような純文学作品は、ミステリー小説や娯楽小説のような、ハラハラした面白さや、最後のどんでん返し、といったような感情に訴えかけてくるようなわかりやすい面白さは無いかもしれない。(そんなことはない、という人もいるかもしれないけど。)多分、たいていの人にとっては、一体何が面白いのかよくわからないものであるように思う。僕も昔はそうだった。別に感動もしないし、はて、何が面白いのやら・・・?

 

でも今はそこに面白さを見出すことができている。(退屈な作品も多いけれども。)ここでは、そういった「純文学」と世間で呼ばれる作品の面白さを少しでも伝えてみたい。

 

ということで、今回はふと書店で見かけて気になった『背高泡立草』の話。

 

 

 

 

軽くこの作品に関して話すと、作者は古川真人、1988年生まれで結構若い。いくつかの作品で芥川賞候補になっているみたいで、世間からの評価は結構高いみたい。彼の母親が長崎の出身のせいか、「大島弁」という方言がよく出てくるらしい。(詳しくはwikiediaへgo)『縫わんばならん』という作品で新潮新人賞という賞をもらっているらしく、この作品の名前は僕も確かに、聞いたことがある気がする。

 

 

 

 

この『背高泡立草』という作品のあらすじをざっと述べる。

 

ある家族たちが、実家にある、すでに使われていない納屋の草刈りに行く。あるものは、なぜ使われていない納屋の草刈りをするのか理解ができず、あるものはそれを自分たちの所有物だから当然のことだと考える。そんな家族が草刈りをする描写と入れ替わり立ち替わり、その描写の中で触れられた、ある事柄にまつわる過去の出来事の描写が、生き生きと描かれる。この現在と、過去が混じり合いながら、この小説は進んでいく。

 

                                                            

 

極々簡単にあらすじを述べてみたが、一体この作品のどこが面白いんだ、ということに話を移してみたい。

 

僕が面白いと思った点、それは「草を刈ることの意味」だ。

 

(なんでそんなところが面白いのか、と思われるかもしれないので、少し脱線。おそらく純文学作品の面白さの一つはこのように、作品の中の描写や行為の意味を考えることにもある。普通の娯楽小説は、誰にでもわかりやすく、読んですぐわかるように書いてある。しかし、純文学は言語で作られた「芸術作品」。手を替え品を替え、言語を使って何か新しいものを生み出そうとする。それゆえ、簡単には理解できない。逆に理解できなくても良いのだ。これはなんなんだろう、と自分なりに解釈を作っていけるもの、それが文学作品だと僕は思う。だから僕がここに書いていることも、僕の解釈であって、正解ではない。)

 

少し長い脱線になってしまったが、話を戻す。「草を刈ること」にどんな意味があるのか、僕なりに解釈してみた。

 

家族は総出で納屋の周りの草を刈る。その際にいろいろな事柄に話は移る。例えば、ある家の中に置いてあるカヌー。納屋の中に置いてある網。その都度、それら事物にまつわる過去の話が挿入される。読んでいる僕は、まさに草を掻き分けるように、この家族にまつわる過去の記憶の中に分け入っていく。

 

そして草刈りを終え、家族はまた自らの生活に戻っていく。しかし、草は毎年生え、納屋を覆ってしまう。過去の記憶が、語られないことでどんどん忘れ去られ、「過去」という区分けされていない堆積物としてどんどん積み重なっていくように。

 

しかし、物語の最後で、納屋の周りを覆う雑草が、実は様々な種類の草から成り立っていることが描かれる。彼らが刈った雑草は、すべて等しいものではなく、それらは実は個々に名前を持つ異なったものなのだ。そしてこの雑草と過去の記憶を重ね合わせてみると、草を刈ることの意味が少し見えてくる。

 

雑草が様々な名前を持つものであることと同様に、過去の記憶もまた、それぞれ具体的な物語を持っている。雑草は堆積する過去の記憶であり、それは等しく、個別的なものなのだ。つまり「草を刈る」という行為は自分たちの足下に積み重なった「記憶」を再度見つめる行為として描かれているのである。

 

非常にわかりづらい説明になってしまったが、これが僕の解釈である。「草を刈る」という行為が、物語全体の構造とリンクし、読者は草を刈るように、この家族の過去の出来事にわけ入る。そして、一様化されてしまっているものが、実は個別的なものであることを再度認識するよう促される。

 

                                                  

 

だらだらと、どうにか自分の解釈を言葉にしようと試みたが、思ったより難しい。少しずつわかりやすく説明できるように、改善していきます。

 

ただ僕が伝えたいのは、こんな風にして、これってなんなんだろうと考えることが純文学の楽しみの一つであるということです。正解はありません。ぜひ読んでみてあれこれ自分なりに考えてみてください。